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数日前からツイッターでフォローさせて頂いてる方々と「邦画」の在りようのお話をさせて頂いてたんだが、問題点が相互に入れ子みたいに絡み合っててクリアにならない印象なので自分なりに整理してみたいとは思う。 なんだが、零戦映画も難病映画も当たっているのだから、一般層は満足しているのかもしれない。 アニメは一定の興行収入を上げるし、ライダー映画は東映に無駄な映画一本二本作らせるぐらいは稼いでいる。 製作委員会制は事前に利益配分が決まっているから、回収はできている筈。 この様に邦画を「興行」「ビジネスモデル」として見た場合は、問題は無いように思える。一般層には、不満がない、と。 一般層のお客さんにとっては「映画」は時間が潰せたり話題のひとつになったり、デートで時間を共有できれば、それで役目を果たしている。 それはSNSでやりとりしてるのと価値観としてはあまり変わらない。提供する側もそれが出来ているならば、OKな筈だ。 では誰が邦画の現状に「不満」なのか。 一般層は映画の出来不出来について語る事は少ないだろう。「面白かったね」「そうだね」で終わりだ。 「ガッチャマン」に感動して泣いた人もいるというから、それで問題はないのだろう。「ライダー」は出来不出来関係なく、大きなお友達が来てくれて文句言いながら金を落とす。 一方で、映画はその国の文化レベルを映す鑑でもある。 総合芸術としての「映画」には、その国の現状や問題、人々の心のあり様が映りこむ。 今の邦画には、我々の「今」が映っているのは確かだろう。その話はややこしくなるので一旦置くとして、上記の一般層が見る大手公開系列作品に、単館系や限定公開系の作品(あえて作家主義的、とは書かない)がサイドラインとして走っている、というのが「興行」「ビジネスモデル」としての邦画の様相であり、フォローさせて頂いているジャバールさんの喩えで言えば、ファーストフードとロハス風のカフェ料理、ということになるだろう。 ファーストフードについて評論をする人は少ないだろう。腹が満ちて時間潰しできればそれでいい。ロハスは雰囲気でごまかせる。 料理を喩えにすれば邦画の様相はそんな状態だ。 「食」もまた文化であると考えてみると、初めてその空洞ぶりが見えてくる。ここに出汁や工夫をこらした「和食」はない。 だけれどそれを求める人は少ない。なぜそうなってしまったのか。少し時代を遡って考えてみる必要があるのではないかと思う。 邦画が「どついたるねん」であるこの頃、撮影所システムが崩れ、邦画は既にもがき始めていた。 サブカルチャーという言葉が持て囃されたこの80年代後半から90年代、邦画界はカルチャー(文化)と娯楽の間で揺れ動く。 それがディレカンでありロッポニカであったりアルゴ・プロジェクトだったろう。東映がVシネマという形でプログラムピクチュアの夢よ再び、と動いていたのもこの頃だ。 「邦画」関係者達が撮影所システムが崩れ次にどちらを向くか模索していく中で、角川春樹や奥山和由、俊藤浩滋といったヤマ師的なプロデューサー以外は「文化」の方に舵をきったのではないか。 それはサブカルとしてのスノッブな映画評論を補強した。 あの時期以降、急速に文学的な作品を重用する傾向が強くなったように思えるのだ。 バブルで美術品を買い漁ったように、スポンサー側も文学的な作品に出資することがステイタスだった時代があった。 恐らくこの辺りで、一度「娯楽としての映画」は死んでいたのではないか。 制作サイドが求めた「文化としての映画」は凡庸で一般層には勿論受け入れられず、興収は落ちていく。 一方かつてプログラムピクチュアを楽しんでいたファン層は洋画アクション、ホラーや多様化し始めた香港映画にシフトしていた。 先程の「映芸」の洋画一位の「ダイハード」はアメリカ式プロデューサー映画の代表作であるのと対照的だ。 この時期以降、ハリウッドは本作のジョエル・シルバーやローレンス・ゴードン、ジェリー・ブラッカイマーといったプロデューサーシステムによるブロックバスターの時代へと移っていく。 (ちなみに当時の「映画芸術」編集長の荒井晴彦の洋画第一位はなんと「リーサル・ウェポン2 炎の約束」である) さて、そうやって「文化としての映画」が濫造されることによって荒れ地になった邦画の救世主として、テレビ局映画は登場する。 この時点ではまだかろうじて、映画館は「特別な場所」として一般層も認識していた。大スクリーンでテレビの続きが観られる事は価値があった。 以来、大東宝が未だにテレビ局映画に頼らざるを得ない。東映会長も臆面もなく「ライダーが助けてくれる」と有り難がる現状だ。外資を受け入れて知らぬ間に乗っ取られている企業のようなものだ。 テレビ局映画はビジネスモデル先行であり、その都度召集されるために撮影所システムのように継続してスタッフを育てられない。何よりヘッドである監督がテレビ畑の人間なのだから、育てるも何も無い。 一度娯楽とての映画が死んで、後進も育っていない。あの時期に監督デビューした方々の多くが今、撮れていない。 今となっては、だが先にあげた「アルゴ・プロジェクト」が現状の「製作委員会制」の地盤を作ってしまっていた(出資者やソフト化権、テレビ放送権の分配など)のは皮肉な話だ。 「サブカルチャー」に代表されるような実体のないものが価値を持ち始め、一方で「消費」が美徳とされる時代にあって、なお(だからこそ、か)「文化」への誘惑というのは抗いがたいものがあったようで、映画人や脚本家たちは作家主義に拘泥して自縄自縛に陥ったように思える。 ここに1990年代各年の邦画興収10位までの一覧がある。 http://nendai-ryuukou.com/1990/movie1.html 現在とほぼ変わらんじゃないか、と見ていて暗澹たる気分になるが、ご覧の通りこの時期からアニメ映画とテレビ資本の台頭は始まっている。 ゴジラとガメラが頑張っているのは興味深い。寅さんや釣りバカといった「定番娯楽」もギリギリのところで「娯楽としての邦画」を下支えをしているように思える。 2000年代、所謂「ゼロ年代」になるとほぼアニメとテレビ局作品だけのラインナップになる。 http://nendai-ryuukou.com/2000/movie1.html 1980年代後半から積極的に始まったF層マーケティングとテレビ局主導映画によって、男性観客、特にロマンポルノや東映プログラムピクチュアを楽しんでいた層は、蚊帳の外に置かれた状態になった。 東映Vシネマは驚く程の速度で失速し(文字通りの粗製乱造だった)一方で香港映画も1997年の中国返還後製作本数が減り、また王家衛作品等のおかげで「サブカルチャー」としてカテゴライズされていく方向にあった。 (これはこれで、香港映画を女性層に浸透させたプレノン・アッシュの功績は大きいとは思う) かくして、マーケティングからあぶれた男性観客層、アクション映画やホラー映画を好む層は行き場を喪う。 娯楽映画の最後の砦であった「Jホラー」と呼ばれる清水崇や中田秀夫らの映画は早々にハリウッドに回収されてしまい(これも濫造しててあっという間に持っていかれた)、映画会社が持っていた「文化としての映画」の幻影はテレビ局映画の中で形骸化し、実話ベースの難病ものや恋愛ものといった分かり易い「感動」を切り売りする「商品」になっていった。 この時期、音楽にも「J-POP」というメディア主導(J-WAVEの発案)の形骸化現象が見られるのは面白い。 「J-POP」もまた、記号化した「感動」をばら撒く音楽である点でこの両者は似通っている。「サブカルチャーとしての音楽」は「渋谷系」~ロキノン界隈の音が担っていくことになる。 漸く本題に辿り着くわけだが、このような邦画を取り巻く状況の中で、1995年に町山氏を中心として「映画秘宝」がムック本として創刊されている。 この1995年という年は1989年とともにサブカルチャーにとって非常にキーになる年でもあるのだが、先のような行き場を喪った映画ファン層の救済として、「キネマ旬報」や「映画芸術」や「月刊シナリオ」とは違う視座を持ち、「日本で唯一、男泣きの映画雑誌」と自らを謳うこの雑誌は彼ら私たちのオアシスのように生まれてきたのだった。 「映画秘宝」創刊の動機として町山氏は「映画が女の観客を目当てにすることによって、映画雑誌が女性読者向けのものばかりになって面白くなかった。男向けの映画雑誌を作りたかった」「蓮実重彦流の『映画を語るのがオシャレ』な雑誌もイヤだった」「雑誌『CUT』の映画について書いているライターたちが、映画に全然詳しくないので腹がたった」としている(ウィキペディアより)。 これまで見て来た日本の邦洋映画興行状況へのカウンターを明確に意識して、「映画秘宝」は創刊されたのだ。 結果として「映画秘宝」は強力な磁場を持ち、このファン層を取り込む事に成功する。恐らく創刊初期においては、ライター陣と読者の年齢層はほぼ一致していたのではないか(それはたぶん今もそのまま継続している)。 故に「秘宝」はこれら行く宛のない映画ファンの代弁者となり、まるで新興宗教のように「信者」を獲得して遂には月刊誌となる。 町山氏の言葉をご託宣のように持ち上げ、自らの意見のように振舞う人達がいるのは、ある意味仕方ない事なのかもしれない。 「映画秘宝」が現在持つ問題はまた別の機会に考えるとして、今、邦画が一度死んでからの20年の積み重ねとして、殆どの一般層にとっての「映画」とは先に挙げたような「アニメ」「テレビ劇場版」「(安い)感動作」を指すだろう。 或いは「シネコン」という新たなテーマパークへ行くイベントとしてのみ、あるだろう(それももう古びてしまっているが)。 その一方で、この「秘宝」世代(というより「サブカルチャー」世代、か)が産み出したもの(所謂ヲタク文化。映画秘宝自身が告白しているように中二をこじらせた世代による、卒業する事を留保し愛するものに耽溺する文化だ)を図らずも受容してしまった下の世代にとっては、 当事者としてその時代を生きられなかったからこその一種の「憧憬」として70-90年代映画(邦画も洋画も)は存在し、「オリジナル」が生まれない時代にあっては特撮好きは二世代マーケティングとして生まれた平成ウルトラ、ライダーをフォローする事で「飢え」を凌ぐしかない。 大人が観てもよい特撮、として平成ガメラ第一作が公開されたのが1995年であり、その特技監督であった樋口氏が今、邦画特撮の継承者のように扱われているのもその軸線にある事象だろう。 興行側は興行側で、これらの世代、層を全く勘違いして「昭和の記憶」を切り売りすれば儲かるのでは、と相次いでリメイク作を作りファーストフード化して失敗する。 一般層の飽きは早い。ともすれば他ジャンルに持っていかれてしまう。 だが「クールジャパン」等という言葉でマーケットがチラ見しながら取り込もうとする購買力あるターゲットには、これらの「商品」は届かない。 一般層にはもちろん、無用の作品群だ。その袋小路に今、邦画は陥っている。だから皆がなんだか「不満」なのだ。 そして今、「秘宝」を作った町山氏自らが指摘するように、細分化された価値観の先に「外国」文化「洋画(アジア映画含)」に興味を持たない世代が現れ始めている。 洋画の興行収益が悲惨な事になり、シネコンの大スクリーンをあっという間にアニメに掻っ攫われる事態が、もう起こっている。 これは不況で生産業が効率と事業存続を優先した結果、生産力である中間層を失い自壊していっている様と酷似している。 映画興行の断末魔をじわじわと感じながら、打つ手立ては無い。だからみんながどうしようもなく「不満」なのだ。 この論考には今、とりあえず解決策というものが無い。問題点も漠然としたままだ。 「邦画」を良くしたい。「洋画」にも人が入るようにしたい。「映画」産業そのものがもっと持続成長・繁栄していって欲しい。 今また、「B級映画」という言葉がもたらす印象に世代間で大きな差異が存在する事も見えてきた。「B」という言葉に面白みを探っていかない世代。掘り起こしていこうとしない世代。 ここで感じるのは、今手の届くところにある「映画」を消費するだけでOKな世代が登場しているのではないか、という予感である。 何よりも大塚英志が言うように、既に一人の人間が一生に処理できる許容量を大幅に上回る量のソフトが流通し、CSで放送され、テレビで流れている。それは消費者をまるで城壁のように取り囲む。 そう、あの宮崎勉の部屋がそうだったように。 皆が指摘するように、ハリウッドでさえ、ここ30年はあの1980年代の遺産で食い繋いでいるような状態にある(「プレデター」も「エイリアン」も「ターミネーター」もいつ頃の映画だったか思い出して欲しい)。 「映画」はどこへ行くのか。危惧するだけでは前には進めないが、今、ジプシー・デンジャーがアラスカでがっくりと膝をついているような状況に「映画」があるのは確かだ。
by Gun0826
| 2014-02-13 12:48
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