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「シン・ゴジラ」の作劇まわりについて書く。 「ニッポン対ゴジラ」というキャッチフレーズの通り、本作では従来の怪獣映画では描写の一部でしかなかった日本国政府と未知なる巨大不明生物「ゴジラ」との攻防シミュレーションをその物語の核としている。よって政府関係以外の一般人は一切登場しない。市井の人々の生活は遠く後方にある。これは予めの情報でも伝え流れていた通りだ。 ここで我々が眼にすることになるのは、普段はニュース番組の中でそのさわりが扱われているだけの閣僚や大臣達の議事運営についての愚直なまでに丁寧なトレスである。 「会議映画」と言われる程に前半は会議、会議である。それは日本の政治システム、議会制民主主義(いやしかし、この場合に巨大生物出現において臨時国会が召集されてもおかしくはなかったかもしれない。ここで議会を開かず大臣クラスでの会合で全てが決められていくのは例の「福一」での政治プロセスのトレスだと言ってもいいかもしれない。意図があったかどうかは別として、枝野前官房長官への取材があった亊は特記しておいていいだろう)とはこういう手順を踏まなくてはいけないのだという当たり前の事を描き出す。ハリウッドならこんなの大統領の鶴のひと声、或いはCIAだのNSAだののマターで進んでいくであろう。或いはモーガン・フリーマンが決めてしまってOKなのだ。大らかだアメリカ映画。 同時にこの会議シークエンスは状況映画としての緊張感とある程度の作品の「格」を持たせる役目を持っている以上に、あれだけの(現状邦画の、という寂しい括りにはなってしまうが)豪華キャストをいかに配置し、効率的に短い時間で出演させるかという香盤状の工夫でもあろう。なんせ会議室ひとつに全員集めてしまえば、撮れてしまうのである。これが列島各地に大臣がいて、みたいな描写をしようものなら日数も予算もかかってしまう。ある人を除いて全員先に集めてしまうのは良いアイデアだったと思う。 平成ガメラ1作目では伊藤和典と金子修介の間で、閣僚クラスのキャラは出さないという了解事項があり、それであの斉藤審議官の登場となった。民間視点で物語を紡ごうとした金子(これは東宝、大映とものオリジナル映画への準拠とも言える)と、思い切って大臣だけに絞ってしまう「シン・ゴジラ」には、民間人では最早ヒーローたり得ない現代の位相も反映されているだろう(同時に金子は「ビオランテ」の三田村邦彦と峰岸徹のコンビが嫌だったとも話している。これは解らない話ではない。俺自身も違和感があった)。 そして米国等の思惑などのごちゃごちゃからの自衛隊の もうその辺の役者は見せたしいいでしょ、と言わんばかりのあっさりさで、ヘリとともに彼らは炎に沈んでいく。 そして、東京都心は「捨てられる」。そこを決戦場とするためである。 我々はこの辺りまでを、先の震災の映像を見るような感覚で見せられており、そこで実際には押しつぶされ、血まみれになり、火傷を負ったりしながら死んでいったであろう人々の姿を見る事はない。破壊は俯瞰で行われる。圧倒的事象の前で、その下の死を本作は例えニュアンスだけであろうとも徹底的に見せない。それが良い悪いはここでは問わない。見せない、という共通認識なのならそういう事だろう。 樋口監督には「ガメラ3」でそこに特化した為に別の意味で映画を尖鋭化させてしまいバランスを崩してしまったという後悔もあったかもしれない。 非常に周到に、(政治的、社会的な)大人たちの物語にならないように本作は設計されている。 巨災対の面々はそれぞれのパートのスペシャリストではあるがそれ以外ではただの「人」であり、即ち「文民」である。「これが俺たちのシビリアンコントロールさ」とでも言わんばかりに彼らはまるで日々戦う企業戦士(これも死語だねぇ)のように不眠不休で働く。人的ネットワークを駆使して、民間も動因して(一億総活躍社会ですね)、ゴジラに立ち向かう。 その間に世界の都合で日本は核攻撃される事が決まる。普通に考えれば、この極東の島国で起こっている言ってみれば台風みたいなものに、安保理やG-7がすぐに核攻撃を決めてしまうというのもずいぶんと性急な話であるが、これも東京を決戦場にするための「手筈」であり、「タイムリミットの設定」でもある。 タイム・サスペンスとしての「核攻撃」。 昨今の海外ドラマにはハッカーや情報技術のプロが必ず捜査チームに必ず配置されるようになったが、巨災対はそういった言ってみれば「使えるおたく」集団として描かれる(「スコーピオン」という天才集団のみで作られたチームが事件を解決するドラマもある)。古い喩えだが、「電車男」がエルメスを攻略する時に集った人々のようなイメージで、それぞれキャラの一角を立たせた人物達の知恵が結集され、ゴジラは「時間さえあれば対処可能」なものと規定される。 平面だったものを折り紙のように立体に見直す事で答えが導き出されるゴジラ対策の種明かしは、見方を変えれば人の違う点が見えてくるというこれらの面々そのものを表していると言ってもいい。 この辺りになってくると観客もこの一人ひとりでは力の無い面々にすっかり伴走しているので澱みなく話は進んでいくのであるが、ヤシオリ作戦までの時間がどうしても前半よりもペースダウンしてしまうのは残念。何しろゴジラの方は固まって動かないし、東京には既に人はいない。謎解き編となるこの部分はくぼんでしまってもしょうがないのだが、もう一つ何か無かったかとは思う。 切通理作と金子は対談で「(ゴジラ映画は現れたら)行って来いになってしまう」と話していたが、その弊害がここに出ている。 あと、アメリカとの接続点であるカヨコ・アン・パタースンの設定に中途半端に被爆者三世という現実感を持たせてしまったのはどうか。大体、被爆者を母に持つ娘?息子?が米国人と結婚するだろうか?するのか。或いは敗戦時にでも強引に関係を持たされ、カヨコはクォーターなんだろうか。寧ろ俺は真珠湾攻撃を受けたハワイの日系アメリカ人であれば、オバマ大統領とのつながりにもなって面白かったのではないか、と思う。 そしてヤシオリ作戦。 矢口の自衛隊員への熱いエールなどもあって盛り上がるクライマックスであるが、とられる方法はちょっと余りにも子供の夢全開、ではなかったか。いやいいんだけど。大体ゴジラさんは戦闘機や戦車は「敵」として認識するのに、寄ってくる爆弾載せた電車は敵認定しないのね。それだけ逆に「知能」がある存在として定義されているのだろうか。ちょっと不思議。重機大活躍も男の子の「本懐」ですな。まぁこの辺りは拍手して見ていればいい。 乗れなかった、という人も多く出そうな博打ではあったと思う。よくJRが許したな。 ゴジラ映画の決着としては、 1.人間がやっつける 2.人間サイドは結局カタをつけられず、去っていくのを見送る 3.外因によって救われる(ベビーゴジラたん) 等があり、実際に1.になったケースというのは「ゴジラ」(芹沢博士特攻)と「ゴジラの逆襲」(氷詰め)、「GMK」の立花准将の特攻がメジャーなところだが、本作では何よりもわが国の勝利と復興を描かなくてはいけないため、ゴジラは凍結されて都市に彫像のように立ち尽くして終わる。ゴジラの放射能も血液凝固剤のおかげで半減期二週間だと伝えられる。 だがどうしてもこの展開には無理やり落としたような感じがしないでもない。 「スクラッチ&ビルドでこの国は大きくなってきた」というその台詞を、震災後の日本に当てはめるための理で落とした感がある。そしてふっと、我々はもう違う「戦後」(震災以降)を生きているのだな、と思わされる。第二次大戦を描くには、我々はもう遠くに来過ぎてしまったようだ。 全体的に観ていて思ったのは「細部」の集合体であるなという事。 ディテールの塊、というか(いやそういうもんんだろ)。なんというのかな、外堀が固まっているんだけど中核が見えないという印象はずっとあった。楽しいんだけど。そして今の観客はこういうの好きだろうなとも思うのだ。 マーベル映画や「パックリム」、「マッドマックス」と同じように、物語のエッジの部分の奥に中核があって、その外周を見せられている感じというのは、物語の辺縁を楽しむ、平たく言えば「設定を楽しむ」世代に特徴的な楽しませ方であって、そういう意味でもまさに2016年型のゴジラであったと言える。 本作でいうその中核とは前段で書いたように、「何故ゴジラは日本に来るのか」という問いかけ。 それが曖昧なままラストまで来てしまう、或いは主題のすり替えが起こっている為に、何か大事なものを落としたまま帰路につくような「物足りなさ」を感じてしまうのだ。 無論、牧元教授の怨念という「エッジ」は語られているが、そこにエモーションが伴っていない。何故なら牧というテーマが開始時点で退場しているから。長々と書いてきたこの文章があらすじから一歩も外に出られないのも、あらすじしか本作には無いからなんである。だがそれでいいのだ。 我々は下手なエモーションを見せられてずるずると「大人」に成り果てたのである。 柏原寛司や三村渉には絶対書けない脚本。きっと大森一樹にも書けない脚本。それが本作の脚本である。 (長谷川さんは「ウルトラマン・サーガ」で先に答えを書いたので除外) それにしても、本作でも「この国」って表現がいっぱい出てくるな。 「我が国」もあったからいいんだけど、「この国」って凄い、なんていうのか、いったん他所の国に取られた国で育った人間の言葉だよなぁと思う。妙な客観視。 次回は、本作で一番の気になるポイント、引用について。
by Gun0826
| 2016-08-22 15:21
| Movie
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