えろぶろ at Excite(あなぐらむ番外地)
2018-11-28T22:11:46+09:00
Gun0826
おもちゃ、拳銃、映画、本、音楽、美女・・・そんなごった煮煩悩爆発ブログ。
Excite Blog
ボーダーライン ソルジャーズ・デイ
http://eroblo.exblog.jp/28904222/
2018-11-26T14:12:00+09:00
2018-11-28T22:11:46+09:00
2018-11-26T14:12:42+09:00
Gun0826
Movie
テイラー・シェリダン脚本による「辺境三部作」の第一作である「ボーダーライン」からのスピンオフにして「シカリオ・サーガ」の第二弾となる「ソルジャーズ・デイ」は、言ってみればルーカスの後を受けたアーヴィン・カーシュナーが撮った「帝国の逆襲」のような映画だ。SWを引き合いに出してるのは意味があるので後ほど。要するによりスケール感を増した大作、スター映画的なルックを持ちながらドラマを延伸させ掘り下げ、かつ新たなキャラクターを造形していくという仕事を、本作の監督ステファノ・ソッリマ(お父様はマカロニ・ウェスタンの巨匠)はやっているのであり、かつ全体の物語コントロールはテイラー・シェリダンが握っているという事だ。
映画のルックについて言えば、前作がいかに慎重にドゥニ・ヴィルヌーブ色に染められていたかが際立つものとなった。ヴィルヌーブとロジャー・ディーキンスは非常に緊密・タイトな画づくりを心掛けてハリウッドっぽい画は撮るまいというかのように人物の傍に寄り添い、全体を「見せない」事による画作り(変な表現だが)をしていたが、ソッリマ監督は前作のムードは踏襲した上でイタリアで自身が手掛けていたというマフィアもののエッセンスを加え、映画に「ハク」を出す言ってみれば職人の味わいをもたらす。
撮影も「クリムゾン・タイド」などスコット組のダリウス・ウォルスキーを起用してハッタリの利いた画を随所に見せながら、荒涼とした砂漠には詩情さえ漂わす索漠としたものを捉え(実際の撮影は真冬だったそうだ。寒そうに見えるわけだ)映像に緩急を与えている。
アクション・シークエンスも出来る限りワンショットの中で変化が起こる様に組まれており、画面の奥や手前で爆発が起こり、人が死ぬそのダイナミズムをあえて車中から捉える「臨場性」を映画に持ち込むのに成功している。
僕はシェリダンの三部作全てを観ていないので何とも言えないが、「ボーダーライン」「ウィンド・リバー」は物語の組み立てとして「目撃者」を用意して観客の目線を代行させるが、「ソルジャーズ・デイ」ではもっと俯瞰で物語は捉えられている。シェリダンは既に目撃者を置こうとしない。それはサーガの第二作であるという都合よりも、我々をその「戦場」へ直に放り込んでしまう事で、観客がどの立場に成り得るだろうか考えさせる問いかけを行っているようにも思える。
大の視点では、アフリカで今起こっている事がメキシコやアメリカ本国と直に繋がっており(境界など無意味なように)、誰かが攻めて来ている、侵略されているのではなく「身内(国民)が敵だった」という現代アメリカの、移民の国の最果ての今が映し出される。
アレハンドロやマットの作戦と並行して描かれるある少年の物語は、意外な形で、暗黒に堕ち生きて来た兵士達の袂を別たせ、彼らがまだ現実を侮っていたと知らしめるものとなる。「誰がギャングか分かったもんじゃない」本当にそういう時代になっているという辛辣なフックが我々を襲う。マットが思わず言ってしまうように彼らはどこかで「自分達が世界を護っている」と思っている。思わずにできない仕事だからだ。そして、彼らは梯子を外されて初めて、自分達が誰も救わず、守っていなかった事を知る。それ故にマットも、アレハンドロも掟を破る行動に出る。袂を別った上で同じ結論に辿り着いてしまう所が彼らがずっとパートナーだったという証でもあろう。「やるべき事を」やったのだ。
麻薬王の娘を誘拐したアレハンドロの過去が描かれている。それは国境に生きる聾唖者の貧民の家でひっそりと語られる。口をきけない娘の為に手話を身につけたのにその最愛の娘を失ったアレハンドロの怒りの深さと、放逐されたが故に戻ってくる優しさが切ない。荒涼とした原野の夕陽の中で、鬼神は瞬間、ひとの顔を取り戻したのだろうか。
そして、闇の騎士が救った道化二人のいないお姫様は越境する。闇の導師に誘われ、辺境の王子は行く。
これはうすら寒い現代に思いがけず誕生した子どもの流離譚である。スター・ウォーズ最新三部作と同じように、確固たる信念も正義もない、持てない時代を生きざるを得ない子ども達へと、物語は引き継がれる。
辺境三部作の先にあるのは、アメリカという今や旧大陸と同じく疲弊した国家で生きる者たちをさらに辺境へ押しやって行く、世界の果てへの旅だ。ミゲルが、イサベルがどのような形で出会うのか。興味深い。
エンディング近くになって、前作の音楽を担当した故ヨハン・ヨハンソンのスコアが流れて物語は終わって行く。
この曲には「獣」というタイトルがつけられている。
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ブレードランナー2049 その2
http://eroblo.exblog.jp/27861557/
2017-12-15T17:16:00+09:00
2017-12-16T11:28:08+09:00
2017-12-15T17:16:35+09:00
Gun0826
Movie
ネタバレを含むのでご注意を。
人であること ■脚本のハンプトン・ファンチャーは本作を「命の質を描いている」と言っているが、これは「どう生きるか」という事の前に「生まれ出づる悩み」或いは「自分が何者であるか」という事について言っているように思う。
Kはレプリカントとして登場する。
リック・デッカードは人かレプリか不確かな、曖昧な存在であったのに対して、最初に決定事項としてKはレプリカントである。
なので名前が無い。型番で扱われる。レプリカントは人が作ったモノである。プロダクツである。だがそこに命があり、感情がある。「老い」と「成長」そして「(苦痛を伴う)繁殖」という生物としての人間の無駄を排除しアップデートされ合理化された「ヒト」としてレプリカントはある。
人間は考える葦であるのだとすれば、考え行動し、感情に揺れるレプリもまた人という事ができる。
対立軸としてAIのJoiがいる。彼女は自分が仮想現実であり「まがいもの」である事が端から分かっている。肉体を持たない。だがここにも感情が芽生えている。先に書いたように「老い」と「成長」を生じる「肉体」を省くという意味では彼女もまた人と同質である。
ここに、「命の質」とは量を超えて存在する価値観であるという考え方が出てくる。ただそれは物語としての比喩であり、要するに「if」の力が働くサイエンス・フィクションというジャンルを用いてテーマの純化を行っているのだと言える。
我々は何者なのか。どう生きるべきか。生きた先に得るものは何か。
貴種流離譚として ■「貴種流離譚」とは物語の一類型であり、wikipediaから抜粋すると「ギリシア神話や日本の神話にも例が見られ、「高貴の血脈に生まれ、本来ならば王子や王弟などの高い身分にあるべき者が、『忌子として捨てられた双子の弟』『王位継承を望まれない(あるいはできない)王子』などといった不幸の境遇に置かれ、しかし、その恵まれない境遇の中で旅や冒険をしたり巷間で正義を発揮する」という話型」という事になる。
本作での物語を駆動する鍵となるのが、「逃亡したデッカードとレイチェルの間に子供がいた」というファクトである。
これは生粋の人間にとってはその霊長類という種としての大きな負の問題であり、スキナー(人もどき)であるレプリにとっては福音である。キリスト教の神のひとり子イエス・キリストが人の姿をして現れるように、このレプリから生まれた子というのは人間を超える「貴種」である。どこかにいるであろうその神の子探しが本作の主軸となる。
レプリカントのKはとても優秀なブレードランナーだが、人間から蔑まれレプリからも疎まれる「恵まれない環境」にいる子である。
一方で彼には自らのリアルなものではと思われる「木製の馬」の記憶がある。ここで木製のユニコーンでは無かった事がひょっとしたら伏線だったのかもしれないが、彼はその強い夢の「記憶」から、自分こそが選ばれし者、レプリカントから生まれたレプリカント=高貴の血脈に生まれた子ではないかと強い期待を持つ。
いつしかそれはアンドロイドである彼にはある筈もない「出生の秘密」探しへと、Kを駆り立てて行く。
彼はヒト社会による一種の「捨て子」である。レプリカント自体予め捨て子である。
貴種流離譚を発祥とする物語には大抵パーティーが組まれるが、それがKにとってのJoiである。「一緒に連れて行って」と彼女はネットワーク(自分が属する社会)から切断され、Kのバディとなる。そうしたひな形に忠実な貴種流離譚だと思わせておいて、「2049」は綺麗に嘘をつく。観る者を、そして登場人物を裏切っていく。
「世界を変えられる/救えるかもしれない自分」は実は本物の救世主を守るためのフェイクだった。そうした時に、この種のギリシャ悲劇モデルが大抵は(「スター・ウォーズ」がそうであるように)「父殺しの神話」として展開するのに対して、Kは父を守る。父とはリック・デッカードの事だ。ひょっとしたら自分の父だったかもしれない誰かを救って、Kは死んでいく(ように見える)。世界を救えるのは自分ではない。
この(レプリにとって)救世主になるかもしれないもう一人の本当の子供が無菌状態の中でしか生きられないという残酷。彼女こそが最高の偽の記憶を作る作者であるという残酷。この彼女こそ、間違いなくアップデートされた「神」であると本作は言っている気がする。現代を生きる時に、かつて人々が憧れて物語にした貴種流離譚をそのままなぞらえて終われるほど、現実の「人間」の世界はもう牧歌的な夢を抱けなくなっている。複雑化した移民問題、難民問題、経済格差。自由競争社会の中で、本作が描くような新しい時代の、人種ではないレイヤーが生まれている。そこで生きる時にはもう自らを選ばれし者(達)と思うような甘やかな夢は通用しない。
だから反証的にこれから叛乱を本格的に行っていくだろうレプリのレジスタンス達は、父殺しの方に軸足を置いている。このレプリ達も現実を見ていない。或いは、ここには今現在アフリカやヨーロッパで起こっている数々の独立派運動が落とし込まれているのだろう。だが独立して分断されていった先に好転する、あのオリジナルの「ブレードランナー」のエンディングのような美しい景観が見られるかというと、恐らく答えはNOである。次の独立戦争、次の格差闘争があるだけだろう。
結局人が人である事は極めてアイロニックに「殺し合う」事であろうし、「解任」していく事なのだろう。
そういう時代を映した映画として、「ブレードランナー2049」はあるのかもしれない。
女性差別映画として ■ツイッターで「2049」の作品構造が女性差別的だという指摘を見た。
本項でもあげているJoiをはじめ、Joiが「身体を借りる」レプリカント女性(実はレジスタンス)や、ウォレス社長の秘書である優秀な次世代レプリ・Luvの存在、ちょっと意図したかのように女性が「仕える側」として描かれているように見える。それはオリジナルを書いたファンチャーのオールド・ハリウッドなものの考え方と見えるし(今ちょうど問題になっているような)、前項で書いたようにこれがオリジナルの2019年の延長の世界である事に作り手が愚直であったゆえの世界観であったとも考えられる。ウォレス社長をジャレット・レトが演じた事で生じたちょっとした教祖的なキャラクターのビルドが、かしずく女性としてのLuvを強調したきらいもないでもない。
SNS時代では観たままの反射が「感想」となるケースが多く、その中から嫌悪感が先に来るという事は考えられよう。
だがLuvの忠誠はどちらかと言えば「自分探し」「自己実現」というまさに現代的なロジックによる行動と見る事もできる。これで彼女がウォレスの体の相手をしてたりしたら問題だろうけれど。一方で本作は「繁殖」をその物語の駆動輪とする都合上、「産む性」と「産まない性」という生物学的な差別(区別)が厳然と存在せざるを得ない。ウォレスが生まれたばかりの女性レプリカントの胎を切り裂くシーンなどはそういった物語のベクトル上にある。だがそうした部分にフォーカスを合わせた作品の見方は、残念だ。人もどきでありながら大企業のトップであるLuvと人間でありながら中間管理職であるジョシ(ロビン・ライト)がそれぞれ、自らの仕事と感情の間で揺れ動いている事を描く対峙シーンを見ても、そこに男女の差別を見るよりも生き方/立場の相違による差別を見た方が建設的ではないかと思う。そういう世界をこの物語作者は肯定しているのではない。そうした世界がデッドエンドだと、ディストピアだとして描いているのだから。そんな世界を変える可能性を持つ強さを持つのは「母」である女である、と書くとまた語弊があるだろうが、本作は死者として登場する偉大なる母・レイチェルの物語であり、よくよく見ていくと、デッカードは何もしていないのに気づく。大いなる子の父親としてよりも、既にドロップアウトして父から降りている大人の男が、成長した我が子に詫びに行くような話しか見えないと言ってもいい。この二人の間の葛藤もオリジナルカットにはあったのかもしれない。また植民地惑星での争い事も。レジスタンスの実質リーダーが女性である事、先の節でも書いたように救世主が女の子である事、などから、本作の重要なポジションは女性が占めているという事が見えてくるのではないか。奇縁だなと思うのは、「子供が生まれる事」が大きなテーマとなる作品に、監督であるドゥニ・ヴィルヌーヴが連続して関わったという事だ。彼の前作「メッセージ」とこの「2049」はどこかでクロスフェードを起こしているような、そんな錯覚にとらわれる部分がある。
母が下す決断の物語。それをヴィルヌーヴは変奏したのではないか。そんな事を考える。
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ブレードランナー2049
http://eroblo.exblog.jp/27815203/
2017-12-04T14:25:00+09:00
2017-12-04T14:27:04+09:00
2017-12-04T14:25:01+09:00
Gun0826
Movie
正当な続編となる本作は160分を超える作品だ。正直ずっと集中できた訳ではないし、何よりもドゥニ・ヴィルヌーヴ作品なのでこういう文章に起こすのは非常に難しい。映画自体がイメージの洪水として観客を呑みこむ部分があるし、総体としてやんわりと包まれていた方がいいような(心地よいような)作品であるからだ(実のところオリジナルカットだという4時間版でも時間があれば観ていたいような「世界」だ)。
なので、ここではいくつかの項目に絞って、インプレのみを書いておくに留める。
あらすじ ■
2049年、カリフォルニアは貧困と病気が蔓延していた。労働力として人間と見分けのつかないレプリカントが製造され、人間社会と危うい共存関係にあった。しかし、人類への反乱を目論み社会に紛れ込んでいる違法な旧レプリカントは、ブレードランナーと呼ばれる捜査官が取り締まり、2つの社会の均衡と秩序を守っていた。LA市警のブレードランナー・K(ライアン・ゴズリング)はある事件の捜査中に、レプリカント開発に力を注ぐ科学者ウォレス(ジャレッド・レト)の巨大な陰謀を知ると共に、その闇を暴く鍵となる男、かつて優秀なブレードランナーとして活躍していたが、ある女性レプリカントと共に忽然と姿を消し、30年間行方不明になっていたデッガード(ハリソン・フォード)にたどり着く。デッガードが命を懸けて守り続けてきた秘密とは? 二つの社会の秩序を崩壊させ、人類の存亡に関わる真実が明かされる……。Movie Waiker
全体 ■
プロダクションとしての本作は続編としても、単体の作品としてもほぼ考え得る要素を入れ込み、更に飛躍させ昇華させた、申し分ない仕上りだと思う。何よりもヴィルヌーヴ自身が言うように「オリジナルへの熱烈なラブレター」になっている点が素晴らしい。それでいて(どこかの怪獣映画のような)ファン・フィクションに陥る事なく、しっかりと客観的な視点も用いられて新たな、現代に則した視点・問題提起を観る者に投げかけるものになっているのは、やはりオリジナル版のライター、ハンプトン・ファンチャーの脚本とリドリー・スコット自身が製作総指揮として参加している事が大きいだろう。リドリー・スコットが用意したキャンバスにヴィルヌーヴとロジャー・ディーキンスが自由に、かつ丁寧に描いた絵画。それがこの「2049」だ。
世界 ■
前作の30年後、2049年後を可視化するに当たってヴィルヌーヴ、ディーキンス、美術のデニス・ガスナーが行った作業が正しかったのは、2019年が舞台だった前作から余計な「今、現代」という引き算をしなかった事だろう。あの2019年にそのまま歴史(おぉ、「記憶」だね)を積み重ねた世界を構築した事で、言ってみれば「世界(観)を見せる」事が目的のひとつだった旧作の精神を継承してみせた。我々の2017年とは時間軸の違う別の「近未来」を照れず媚びずに提出した事で、作品をぶれさせることがなかった。世界はより一層のディストピアになり、レプリカントは従順な「移民」以下の「奴隷」となっている。2019年には見られたアジアのテイストは消え、アフリカンやラテンの人々が多い所にさっと現代性が忍ばせてある(加えて言えばウォレス社のあのちょっと下品なVR広告にアジアのテイストが残っている)。
開巻、前作と同じ様な瞳のアップから映る世界は暗くなくグレーである。密集した家屋はどこかメキシコやブラジル、アフリカの集落を思わせる。ハンガリーのブダペストで多くのシーンの撮影が行われた事で、ロスアンゼルスではあるがどこかヨーロッパ、東欧のイメージがこの町にはある。より寒冷化が進み、木は死に、雪が降る。観る者の心を冷えさせる景色。オリジナルがほぼこの「街」だけで起こる出来事だったものに対して続編はその外周を描く。廃品処理場となったサンディエゴ、核で砂漠化した(いや元から砂漠だけどね)ラスベガス。特に現代彫刻の回廊のようなラスベガスはオリジナルに続いてシド・ミードによるデザインが用いられ、作品の連動性を獲得している。ホログラムのプレスリーが、無人のカジノがもう終わってしまった文明を強烈に印象づける。ガジェット類も中途半端に現代的にせずにブラウン管機器はそのまま、ブラスターも改良はされているが銃は銃のまま(まさか中子真治さんのプロップとはびっくりだが)。それがもう死語になった「レトロ・フューチャー」を文字通りレトロな未来像として見せてくれる事が楽しい。
人はどこから来て、どこへ行くのか ■
前作は人間=人とレプリカント(人造人間/アンドロイド)を巡る「命」の問題だった。脚本家のファンチャーは「前作は『命の量』を描き、本作は『命の質』を描いている」という。まさにその通りで、続編では既に生物学的に人であるか、人造人間であるかというものの敷居は曖昧になっている。前作でレプリたちを怯えさせた「寿命」という限界が本作には無い。ネクサス8以降には寿命問題が成立しない。前作でレイチェルとデッカードが逃避行に旅立ったのは、いつ終わるかもしれない「命」ならば賭けてみよう、という理由だった。「愛」を馬力にして、彼らは世界の外に出た。これはこれでとても素敵なおとぎ話だったと俺は思う。ゴーギャンの言葉を元にしてオリジナル版に添えられた「人はどこから来て、どこへ行くのか」というメッセージはロマンチックだった。だが続編で、人との明確な差を失った「スキナー(人もどき)」は人と同じ問題を抱えたステップに進んでいるという事が解る。彼らに足りないのは「記憶(人生)」と「愛」の問題(そして生物学的な「繁殖」の問題)。「愛」という問題については本作では主人公KにJoiという人工知能+ホログラムの恋人を用意している。これは前作のレイチェルとデッカードのリフレインでありながら決定的(物理的)な断絶をもって描かれている。それでもJoiはKを愛するし、KもまたJoiを愛している。まるで「攻殻機動隊」でいう所の「ゴースト」があれば身体など擬体で良いというような作中で言われる「魂(ソウル)」のレベルで二人は結びついている。もう一方でLuvがウォレスに必死にすがるような献身を見せる姿も「愛」である。これは「愛の負の側面」である。捨てられるかもしれない、「解任」されてしまうかもしれないという恐怖を伴うなりふり構わぬ奉仕。極めて「人間的」な行動をLuvはとる。Kの上司であるジョシ(これシャレになってんのか?)も、どこかでKを許し、自分の子供のような、いや年下の男のような「愛」を見せる場面がある。これは人とスキナーの関係を超えた愛の瞬間だろう。デッカードとKの間には「父子」的な感情が芽生えている(比喩的にね)。こうやって書いてきて、実際には「ブレードランナー」という物語はひとつのディテールとして、ガワは関係なく人はどのように人と接する事ができるのか、どうあればよいのかという事を考えてみろ、という定義をしている映画なのだと思える。もう一点「記憶」について。この物語がKに与える記憶とその顛末は極めて残酷なのだが、彼が実際には「そうではなかった」事が、「マトリックス」等多くの「セカイ系」物語の自足感から大きくこの作品を孤立させ、居心地良く閉じていかない「客観」を持ち得ている気がする。自分こそがそうだと念じて信じても、人は人の思う者(もの)にはなれない。そうだったかもしれない可能性はあるが、そうでなない。その「残念な部分」こそが人とレプリとの決定的な「記憶」の違いなのだ。ここで映画は遠く原作であるディックの世界までたち帰る。「模造記憶」/「本当の自分」をテーマにしたディックの人生は決して幸福なものではなかった。そういう冷徹な視線で、本作はKを「傍観者」「主役でない者」として配置している。そこが素晴らしいと思う。極めて現代的だと思う。面白いのは叛乱レプリカント達がデッカードには「死」を求めている事だ。あんなに死を恐怖したもの達が「死こそ人間らしい」と言ってしまう。その逆説にこそ、「人はどこから来て、どこへ行くのか」という極点を見る事ができるかもしれない。
キャスト ■
Kにライアン・ゴズリングを、というのはかなり最初からの案だったようで、これは見事だったと思う。役のイメージとしては「ドライブ」のドライバーに近いテイストで演じている。彼の少し甘い感じも漂う部分は仏頂面のハリソン・フォードと対極の現代的感性の「アウトロー」だろう。Luvを演じたシルヴィア・フークス、俺は初めて見たんだが、彼女だけちょっと現代アクション映画チックなキャラで違和を感じないでもなかったが、キレの良いアクションも見せ前作でいうダリル・ハンナのポジションといった所か。ジャレッド・レトが「スーサイド・スクワッド」のジョーカーに続いて大物役をゲットし、面白い捻じれを作っている。ガフ役のエドワード・ジェイムス・オルモスが登場してくれたのは嬉しいサプライズだった。そしてジョシ役のロビン・ライト。今年は「ワンダー・ウーマン」でもヒッポリテの妹役で活躍、今作でも大事なポジションと今がキャリア第二の華の時期ではないだろうか。
スタッフワーク ■
プロダクション・デザインのデニス・ガスナーと撮影監督のロジャー・ディーキンスはクレイグ版「007」のチームでもあり、その重厚かつ建築・絵画的なアプローチが本作では十分に生きている。ディーキンスとドゥニ・ヴィルルーヴも既に「ボーダーライン」でそのクオリティは証明されているので、まさにこれを撮るべくして集まったという感じだ。特にヴィルヌーヴは全くたまたま来た雇われ仕事だったというが、堂々と自分の方に引き寄せて作りきった点は素晴らしいと思う。また、色の使い方、照明の複雑な構成、自然光の使い方等、ほんとにロジャー・ディーキンスを愉しむ映画という意味では、ベルトルッチ作品のヴィットリオ・ストラーロ的な味わいがある。グリーンバック云々を言うと最近は「へぇそこが評価基準なのか」って寺脇研に言われちゃうので書きたくないが、やはりきちんとロケをして、作り込んだセット(ミニチュアも含め)にちゃんと画面の、シーンの意味を担わせている所は評価しないといけないと思う。CGIを否定する者ではないが、デジタルになってもやはり「空気は映る」のではないか。高解像度になればなるほど、逆説的に「そこにあること・もの」こそが映画の最大の武器になるのではないかと思うのだ。こんなSF映画だからこそ、よけいに。あと、当初言われていたヨハン・ヨハンソンがメインではなく、ハンス・ジマー先生がスコアを当てたのも印象深い。ちゃんとヴァンゲリスのテイストだもんね。
終わりに ■
多くのクラシックが続編やシリーズ化して失敗していく中、この「カルトSF映画」(あえて中子さん風に書いてみました)が見事に、予想を綺麗に超えていく美しさで現れた事、なんとか劇場で目撃する事ができた事は喜ばしい。頼むからここで終われよ。]]>
ダンケルク
http://eroblo.exblog.jp/27147917/
2017-09-25T17:42:00+09:00
2017-09-26T09:58:29+09:00
2017-09-25T17:42:03+09:00
Gun0826
Movie
SNS回りではちょっと嫌な感想もあったんで今回も心配しながら出向いたのだけど、杞憂でした。
以下あらすじ↓(MovieWalkerより)
第二次世界大戦が本格化する1940年、フランス北端の海の町ダンケルク。フランス軍はイギリス軍とともにドイツ軍に圧倒され、英仏連合軍40万の兵士は、ドーバー海峡を望むこの地に追い詰められる。背後は海。陸海空からの敵襲。そんな逃げ場のない状況下でも、トミー(フィオン・ホワイトヘッド)やアレックス(ハリー・スタイルズ)ら若き兵士たちは生き抜くことを諦めなかった。一方、母国イギリスでは、海を隔てた対岸の仲間たちを助けようと軍艦だけでなく民間船までもが動員され“史上最大の救出作戦”が動き出そうとしていた。ドーバー海峡にいる全船舶が一斉にダンケルクへと向かう。民間船の船長ミスター・ドーソン(マーク・ライランス)も、息子らとともに危険を顧みずダンケルクを目指していた。英空軍パイロット・ファリア(トム・ハーディ)も、数において形勢不利ながらも出撃。タイムリミットが迫るなか、若者たちは生きて帰ることができるのか……。
ノーラン異例の120分以内の作品である。そしてずっと伴走してきた弟であるジョナサン・ノーランとの共作ではない単独脚本でもある。通常の半分の量にしたという脚本は本人曰く「サードアクトから始めたかった」という事だ。要するに起承転結の転だけをやろうという試み。この「ダンケルクの闘い(ダイナモ作戦というらしい)」は英国人には有名な史実だそうで、かつて映画化もされているからそういう歴史状況は全部すっ飛ばしますよ、という今までのノーランがついついやってしまっていた冗長な前半を(多分「インターステラー」で反省したんだろうけど)ばっさりやったという実験である。
加えてメインキャストはノースター(でもないけど)で群衆劇というのも個人に焦点を当てがちだった今までの作風から転換している。
一方で、陸海空の三視点で描かれる物語はそれぞれ異なる時間軸で描かれるという、繰り返しやってきた手法は今回はあえて明示して行われる(防波堤:一週間、とか)。これは監督自身が言うように映画という娯楽における一番魅力的な「手法」だからでもある。時間軸を一つに限定しない事で、観客はパノラミックに、かつ追想としてひとつの物語を反復したり俯瞰したりできる。「インセプション」で見ている者の変わる夢の三階層の、「インターステラー」では光年の違いによる時間軸の"ずらし"の正体を、本作は種明かししている。
本作で一番印象的というか、あぁそうだったねと思ったのが、ノーランの「水」と「火」というモチーフへのこだわりだった。なんだよタルコフスキーかよという感じだけれど、今までの作品でも「水」-特に「溺れる」という状態のサスペンスは繰り返し使われてきた。「インソムニア」にも「インセプション」にも「インターステラー」にもこの水の表現は登場する。そして「火」はあの海面の引火した炎、少年兵が遠く地平線に見る炎、最後にパイロット・ファリアが自機を燃やす際の炎として繰り返し出てくる。水も火も人には全てのコントロールができないもの。要するに自然そのものであり、それを記録する事こそ彼は「映画」だと思っているフシがある。今回は今まで以上にフィルム撮影である事を観客に印象付け(IMAXじゃない版だとここが凄く強調される)、わざと増感させたのか感度の高いフィルムを使っているのか、ざらざらとしたデジタルではない事をあからさまに知らせる画-例えば風で吹き飛ぶ雪のような波涛、戦闘機が通過していく雲のすき間、爆発で舞い上がる海岸の砂、これらの自然の事象を、それが主役だとでもいうように拾っていく。
そしてダンケルク海岸の実際の場所で撮影し、本物の駆逐艦を沈め、実際のスピットファイアを飛ばして空戦を撮る。グリーンバックを否定する。そこにあるものを撮るという事。実際の大きさを見せる事。そういう、言ってしまえばこじらせた映画少年の、だがそれがやっぱり映画なんじゃん、っていう思いを、本作には感じざるを得ない。それは本人が言うように、カメラを自分で回し、編集台でフィルムを刻み繋げた最後の世代が、後の人々にこういう事をやってたんですよという伝承の域であるような気もする。本作には物語が無い、ドラマが無い、人物描写が無い、という指摘を見かけたがそんな事は無い。どの人物も魅力的で極めて人間臭く描かれている。或いは役者の肉体をもって(それは入念にオーディションをした事でスターが演じるのではなく「人」に焦点を絞って)表現されている。
物語というものの捉え方にもよるだろうが、史実に基づいてセットされた陸海空の物語はどれも「生き残る」事が主題になっており、この大いなる「撤退」劇を様々な視線と時制の往復でもって描出する。状況や事実を伝達する言葉がメインの台詞しかなく、主人公と一応設定される少年兵にもちゃんとした会話らしい会話の台詞は無いが、会話する事が物語ではないのは自明の事であろう。寧ろ空疎に交わされる長い会話がどれだけの「物語」を、「ドラマ」を蔑ろにしてきたかはみなさんの知るところだ。「敵」であるドイツ軍は実体として出てこない。
時には巨大な爆撃機として、戦闘機として、或いは目に見えない兵士から放たれた銃弾(とその音)として、「敵」は描かれている。
それは政治・軍事対立している「敵」というよりは「生存を脅かすもの」という位置づけで登場する。ある時は「水」となり、「火」となり、主人公達を追い詰める。このサスペンス(文字通りのサスペンス)はノーランが映画監督を目指すきっかけとなったという、同じイギリス出身で今も現役で商業映画を撮り続ける巨匠・リドリー・スコット「エイリアン」の持つ構造を思い起こさせる。
純粋サスペンス映画であろうとする事。
台詞の代わりに本作ではほぼ全編、ハンス・ジマーによる劇伴が流れ続ける。根底にずっと時計の秒針のような音が刻まれ続けるこのサントラは映画をずっと緊張感の中に漂わせ、時にひしゃげた様な音でもって人の感情を、戦局を、観客に伝える。ここにもトータルデザインとしての映画への気配りがある。ジマー先生今回も絶好調である。
「家へ帰る」という生存目標を達成した少年兵は帰途の列車の中で、はっと眠りから覚める。今までの出来事はまるで「夢」だったかのようだ。
しかし、チャーチル首相の声明を新聞で読む事で自分がその生還者である事を知る。「夢」ではない。
その声明、勇気ある撤退劇を讃えながら、自分達はあらゆる戦線で最後まで敵と戦い抜く、というその言葉でエンディングとなるが、「この映画は戦争映画ではない」とノーランがいう本作の小さなメッセージがここにある。
このチャーチルの空疎な演説。それが今現実の世界、大戦から70年を経てなお、世界のトップが放つ声明と変わらない事。その空しさ。それを逆説として、そっとノーランは置いていく。「ダンケルク・スピリット」を賛美しつつ、寧ろ勇気ある撤退、生きて帰る事(「インターステラー」でもこの点が重要だった)をこそ、勝利だと彼は考えるのではないか。そんな106分である。
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ワンダーウーマン
http://eroblo.exblog.jp/27111161/
2017-09-12T21:32:00+09:00
2017-09-13T21:26:25+09:00
2017-09-12T21:32:02+09:00
Gun0826
Movie
本項に関連して、以下のエントリもご参照頂ければ幸い。「バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生」
「マン・オブ・スティール」 以下あらすじ↓(MovieWalker より)
女性だけが暮らすパラダイス島で、プリンセスとして生まれ育ったダイアナ(ガル・ガドット)は、好奇心旺盛だが外の世界を一切知らず、男性を見たことすらなかった。そんなある日、島に漂着したアメリカ人パイロットのスティーブ(クリス・パイン)を助けたことで、彼女の運命が大きく動き出す。外の世界で大きな戦争が起きていることを知った彼女は、自身の力で世界を救いたいと強く願い、二度と戻れないと知りながらスティーブが暮らすロンドンへ行くことを決意。やがて、ダイアナは、無敵のスーパーヒーロー“ワンダーウーマン”としてのパワーを開花させていく……。
本作を実際に観てみて、これはツイッタでも書いたが、「映画秘宝」の記事を読んだ事を深く反省した。何故なら非常にバイアスをかけて観てしまったからだ。こんな事はあんまり無いのだけれど、本当に失敗だった。
どういうバイアスかというと「女性監督が撮った映画」だというのがひとつ、主演がイスラエル人であるガル・ガドットであるというのがもうひとつ。要するにある種の政治的・思想的なものが背後にあるという読みを自分に促してしまった所があった。
作品自体は大変良く出来た、ヒーロー誕生編としては過不足の無い出来上がりで、娯楽映画としてとても優れていた。先制、中押し、駄目押しという見せ場(後半がやや弱い)の組み込み、回想譚として頭と最後を現代に繋いでDCユニバース世界の一連だと思わせる手筈も綺麗だった。
イタリアにロケしたというセミッシラ島のアマゾネスを現出させた世界観、前半のロンドンお転婆エピソード、ベルギーでの中盤のまさにヒロインアクションかくあるべし、という映像。脇役にネイティブ・アメリカン、アラブ系やスコットランド人を並べた道中ものとしての楽しみもある。見事である。
本作はマーベル・シネマティック・ユニバースでいう所の「マイティ・ソー」と「キャプテン・アメリカ ファースト・アヴェンジャー」を同時にやって見せる。140分という時間の中で神々の世界と世界大戦の風景、両方をやってしまう事の凄さには感嘆する。
監督のパティ・ジェンキンスは2003年の「モンスター」でシャーリーズ・セロンに賞をもたらした監督で、この映画が実在の女性殺人犯とその恋人(女性)を描いたものであった事から、どうしても本作を「フェミニズム映画」と捉える批評が多く見える。実際に作中にも女性がまだ被差別対象だった第一次大戦下で、「秘書」という言葉を使って「セクレタリー/スレイブリー(奴隷的な)」という皮肉とも取れるやり取りがあったり、先に書いた中盤の男達が「土台」になって女戦士が飛ぶ、という画があったり、そう取れなくはない。ヴィランにドクター・ポイズンを配したのも、そういう意図を感じようとすればできるかもしれない。
しかしこのパティ・ジェンキンス、様々なテレビシリーズを長く担当しており、非常に無駄なく嫌味なく演出をしている感じで、日本でよくある「ラディカル・フェミニズム」の意識は少なくとも感じなかった。
原作通りスティーブ・トレバー(クリス・パイン)とのロマンスもある(ここがおとなしめな描写なのはヒーロー映画の作法であり、観るかもしれない女の子達に配慮したものだろう)。
この辺りのドラマツルギーは脚本を担当したアラン・ハインバーグの手腕でもあろう。彼は「セックス・アンド・ザ・シティ」や「The OC」「グレイズ・アナトミー」といった女性ドラマ、恋愛ドラマで腕を揮う一方コミックの「ヤング・アヴェンジャーズ」の作者でもあるヒーローものに精通したスタッフである。彼がゲイであったり、クリス・パインもゲイだったりというのはもうハリウッドの多様性そのものというしかない。
ジェンキンス監督はお子さんもおられるし、パイロットだった父親も誇りに思っているようで、思想的な傾きは感じられない。あえて言えば、観る側が傾いているのだ。そういう文脈で観てしまわれる事。それが娯楽映画である本作の一番の傷みだと思う。
とは言え、マーベルのブラック・ウィドウが未だにステロタイプなアクション・ヒロインである事を思えば、本作のダイアナ・プリンスは異世界から来た人であるという利点でもって、ここを平坦にならしてくれる存在に成り得たのだろう。作品中で気に入った台詞は「俺は今日を救う。君は世界を救え」というスティーブの台詞だ。
世界大戦という「歴史」の中で、兵士である彼にはできるのは今、この瞬間を何とか切り抜ける事。だけれども神であるダイアナは世界を救える。そして彼は、ダイアナにとって忘れられない人になる。
スーパーマン2作でザック・スナイダーが紡いだ宗教画としてのヒーロー映画が、今作でもリフレインされる。
文字通り神同士の闘いのクライマックス、この部分の毎度のCG合戦には正直辟易するが、注目すべきはダイアナのこのポーズである。
これはもうアイコンとして意識してやっているとしか思えないが、そのシーンはアレスとダイアナ、この兄妹(!)の闘いの中の画である。旧約聖書でカインとアベルの兄弟が人類初の殺人を犯すのを裏返して、妹が兄を殺める展開になっている(この二人はどっちかというとゼウスが作ったものなので、人に近い)。
ここでも聖書の語り直しが行われている。DCエクステンデッド・ユニバースは、神話である。などと書いてきたが、「ワンダーウーマン」はもう純粋に「ガル・ガドット最高!」って言っていればいいような映画である。彼女としてもキャリアの一番いい時に出会った最高の役だと思う。
作品自体も女性も男性も楽しめる。オトナもコドモも楽しめる。歴史の勉強にもなるぞ。
それは娯楽映画としては、非常に望ましい事なのである。]]>
[書評] 失われた男 ジム・トンプソン著
http://eroblo.exblog.jp/27079618/
2017-08-29T20:07:00+09:00
2017-08-29T20:07:10+09:00
2017-08-29T20:07:10+09:00
Gun0826
Book
久々の読書感想、ツイるのにはちょっと長くなりそうなのでここに。
怖い小説だった。
ジム・トンプスンの作品なので一筋縄でいかないのは元より承知の助だったのだが、これは予想の斜め上、本当に斜め上を行ったケースだった。
原題は「The Nothing Man」。邦題も比較的直球に思えるのだがここに様々な意味が込められている。三川基好は「おれの中の殺し屋」なんていう酷い邦訳をつけたから怒ってたんだけど(中公版の「内なる殺人者」が好きだからというのもある)、これはクリンヒット。
解説で中森明夫も書いてる通りプロットは松竹新喜劇、(トンプスン作品の)お馴染みの役柄の人達が同じような展開で出てくるんだけれど、出来上がったお話(っていうのかなこれは)は普通のクライムノヴェルや探偵小説、おそらく当時(1954年)ダイムストアで扇情的な表紙に誘われスケベ心で買ったであろう読者に痛烈な一撃を食らわす、メタ小説のような作品なのだ。
主人公、クリントン・ブラウンは小さな町の新聞社に勤めている。事件が無い事を何よりとするラブレイス社長の命に従い、へつらい、ブラウニー(物語中、多くの人は彼をこう呼ぶ)は詩を書いたりしながら(彼は非常に教養に長け、町の連中は自分よりもみなうすのろだと信じている)単調に日々を過ごしている。
だが彼はアル中だ。というか酒が血管を通っているような男だ。恐らく酒無しでは平常心を保っていられないような男だ。それは彼の戦争体験による。傷痍軍人である。
失くしたのは、もうお気づきの方もいると思うが、男性の能力である。
読み込むと恐らく、男性器そのものが欠損しているようにも読める(隠さなくてはならない、という件)。
そう「失われた男」なのである。
彼は、前線で彼を無謀な突撃任務に曝した上官、「大佐」ことデイブ・ランドル(新聞社の上司。恐らく彼のコネでブラウニーは雇ってもらった)をわざと軍隊言葉で会話してみせ、ネチネチとイビる。
そして酒を飲む。飲む事で彼の頭はクリアになるが、「両方からの力」に引き裂かれそうにもなる。
それは正気と、越境した何者かがいる場所、彼岸である。
ブラウニーは新聞社員だけに町を守る保安官、レム・スチューキーと仲が良い。良いというのは、スチューキーの多大なる努力によるものではあるが。
さて、物語が動き出すのは、ブラウニーの元妻・エレン、あまりオツムがよろしくない、多分容貌もそんなに良くはないだろうこの女が町に舞い戻る事で動き始める。ペイパーバックという出版形態の都合上、勿論美人さんも出てくるが、トンプスンの小説で物語を動かすのは大抵、器量の悪い女だ。
そして「軽蔑(連続)殺人事件」が幕を開ける。
トンプスンの小説の常で、本作も一人称一視点で書かれている。そしてこれも例に漏れず、この語り手は全くと言っていいほど信用がおけない。だからトンプスンを読む時は――今そこに書かれている事がそうであるとは限らない。そして、本作の度合いはトンプスンでも最高難度クラスだと思う。
小説というエンターテイメントを読もうとする者は、そこに娯楽を、カタルシスを求めるのが常道だろう。
最近では「いやミス」というのもあるというし時代も変わったものだと思うが、ジム・トンプスンがしゃかりきになって(食う為に?いや何の為だろう?)ペイパーバックを書き飛ばしていた頃にはそんな意地の悪い読者は居なかった筈だ。そんな時代にあってトンプスンは意図せずに「いやミス」以上の居心地の悪さを最後の最後で提供する。
これは最終章が完全に分裂症患者の文章みたいな「死ぬほどいい女」もそうだし、傑作「残酷な夜」もそうだ。トンプスンは「そういう読者」に向って書いているのではなく、彼が書くと「そうなってしまう」のだ。
この「失われた男」、「The Nothing Man」というタイトルが指すもの。
それが最終章で語られていく。我らがブラウニーは「"男"になれない」。「"男"ですらない」。
「何者でもない透明な存在」。そう「虚無」。
ドラマツルギーとしてカタルシスを得るには例えば相手を打ち倒すとか、主人公がかっこよく死んでみせるとか、そういうアクションが必要だ。それをこの作品はしない。ただ、立ち尽くさせる。
本作はトンプスン作中(俺が読んだ中で)で最も「語り手に残酷な」物語である。
そして読み終えた瞬間にこの一連の「書き物」は読んでいた我々自身に向って静かにその指を指す。
「ここに書かれているのはお前の事だ」と。
「内なる殺人者」のあの偉大なフレーズ「俺たちみんな」の再来である。
自分が他人よりは「まし」だと考え、すぐそばに舗装路があるのにあえて砂利道を行き、上らなくてよい坂を上り、旨そうな獲物は常に誰かにかっさらわれる、そんな人生。
この先も得る物など何もないそんな人生が続いていくという身も蓋もない現実をトンプスンは突きつける。
「ダイムストアのドストエフスキー」と呼ばれる所以である。
恐ろしい本である。
なお、読みながらシネマヴェーラ渋谷の「フィルムノワールの世界2」で50年代の映画を観られたのは読み進めるうえで非常に助けになった。あと「ゴッサム」がイメージのソースにもなった。
こういう出会いもあるのだ。
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パトリオット・デイ
http://eroblo.exblog.jp/26920608/
2017-06-12T12:42:00+09:00
2017-06-12T14:00:19+09:00
2017-06-12T12:42:22+09:00
Gun0826
Movie
「バトルシップ」でその筋(どの筋)のファンを狂喜させた監督、ピーター・バーグと「ローン・サバイバー」でも強烈な印象を残したマーク・ウォルバーグが三度タッグを組んで(間に「バーニング・オーシャン」が入る)ボストンンマラソン・テロの犯人確保までの経緯を描いた実話もの。こいつがなかなかにパンチの利いた作品だった。あらすじ↓2013年4月15日。
殺人課の刑事トミー(マーク・ウォールバーグ)は朝からボストンマラソンの警備に駆り出されていた。
オリンピックの次に歴史の古いこのマラソン大会は、毎年祝日である“愛国者の日”に開催され、117回目を迎えるこの日も50万人の観衆で賑わっていた。
次々と走者がゴールインする最中、トミーの背後で突如大爆発が起こる。歓声は悲鳴に変わり、逃げ惑う人々と折り重なって倒れる負傷者で現場はパニックとなった。
到着したFBIのリック(ケヴィン・ベーコン)は現場に散乱した金属片を見ると「これはテロだ」と断言。テロだとFBIに管轄が移る。犯人逮捕に燃えるトミーは歯ぎしりをするが、病院を回って負傷者たちの話を丁寧に聞いてまわるのだった。
やがて監視カメラに映る不審な“黒い帽子の男”と“白い帽子の男”が容疑者として浮上し、事件はアメリカ全土を揺るがす緊迫の事態へと発展していくのだった……[公式サイト] より
アクション映画監督としてのピーター・バーグの資質は上の2作で十分信用に値するものなのだが、今ひとつこの人の立脚点が分からないでいた。職人映画監督としてきたものをこなすタイプ、というのはちょっと違う気がしたからだ。
そこが本作を観てみて、凄く自分なりにすっきりしたんで書いておく。
ピーター・バーグの作品は一貫して欠損している者を描こうとしている。
それは肉体的な欠損というより精神的な欠損である。それを「目に見えるもの」として肉体の欠損、特に「歩けない者」(人としての一番基本的な行動が不自由なもの)として描く。
本作では被害者の多くが脚を負傷したボストンマラソンテロが題材である。
主人公マーク・ウォルバーグも膝を痛めた警官で終始脚を引きずっている。これは負の、心に傷を負う者の印である。(終盤に、彼が妻ともども心にも大きな欠損・傷を負っている事が語られる)
冒頭から我々観客は、この映画のどこかでその時が来るのを知っている。待っている。
その中で民衆の日常が、幸せな時間が描かれていく。普通に仕事をし、普通に一日を終え、明日の「愛国者の日」を待っている。休日を楽しみにしている。未来を見ている。
そしてその瞬間が起こる。そこから人々は未来とは隔絶され、ある者は病院に送られ、ある者は捜査する側、救出する側、またはなんと犯人に拉致されたり射殺されたりして映画内の「今現在」を生きる/死ぬ事になる。
沢山の人が実際に脚を失い、その光景、8歳の子供が死んだ姿を見た事で心に深い傷を負い、息の詰まるような四日間を生きていく。
主人公として一応マーク・ウォルバーグが設定されている(彼と妻だけが架空の人物であり、三人の実在の人物のミックスになっている)が、これは「彼ら」の映画である。「Them」の映画である。
街に生きる人、ボストンに生きる人たちの映画である。「ローン・サバイバー」が一人を生かすために散っていく者たちの物語であったように、「バトルシップ」がテイラー・キッチュだけを英雄として描かないように、ピーター・バーグは「その他の人々(彼が言う「民衆」。ワーキングクラスの人々)を主人公に据える。
一番象徴的に描かれるのはクライマックスの市街戦とも言うべき銃撃戦の局面。
ここにマーク・ウォルバーグがいないのがポイントである。いるのは自宅で愛する妻(おそらくは体が不自由な?)が待つ老齢のウォータータウン署の署長であり、彼も後半に駆けつけるばかりである。
テロリストとの銃撃戦は名もない警官達が銃のジャムと、飛んでくる金属爆弾に苦戦しながら行われていく。
ピーター・バーグはドキュメンタリストとしての資質を持つ監督なのだ。
これはキャスリン・ビグローのようなアドレナリン・ジャンキー型の監督の資質ではなく、リアリストとしての監督の資質だと思われる。クローネンバーグのような傷口フェティシズムとも違う。
彼がその足の欠損を描くのは、そこに力強いメッセージを見ているからだ。
物語が終わり、映画はレッドソックスのホームグラウンドで現実とのリンクを行う。
殆どの人物が実在の人である事が伝えられていく。そして、彼らはその欠損と心の傷を「はね返して」今も生きている。克服し強く生きようとまた「未来」を見ている。その姿こそがピーター・バーグの描きたい「生の力」「生きようとする(サバイバーとなる)意識」への賛美である。
「ボストンよ強くあれ」という言葉を愛国心に繋げるのは陳腐な考えである。たまたま起こったのが「愛国者の日」であっただけで、そこに描かれるのは反テロリズムや反イスラムのメッセージではない。人よ強くあれ。前を向いて困難を越えよう。そういうメッセージである。
それは「フクシマ」や「クマモト」の人々が強く生きようとする姿と同じである。
名もなき英雄たちの言葉に監督たちはバトンを渡し、映画は終わる。
政治の映画ではない。映画の基本たる「困難に対面した人がそれを乗り越えていく」というストーリーラインの傑作である。]]>
「ノワール」とは何か 或いはジャンルの解釈について
http://eroblo.exblog.jp/26230232/
2016-09-27T18:29:15+09:00
2016-09-27T18:28:46+09:00
2016-09-27T18:28:46+09:00
Gun0826
Movie
先にツイッターで書いた通り、この言葉を巡る解釈というか定義はとても曖昧・多義的・多層的で、正解は無い。試しにミステリマガジン2001年の「ノワールの時代」を引っ張り出して定義が載ってないもんか見てみたが、そこにも「明確な定義はない」と書いてあった。
大前提として小説界で、アメリカのパルプノヴェルスで大量消費されていた犯罪小説をフランス、ガリマール社が叢書としてまとめる際に用いた「セリ・ノワール(暗黒叢書)」というのが一番の語源だというのがある。
その叢書を好んで読んでいたフランスのヌーヴェルバーグ監督たちがアメリカの低予算モノクロ犯罪映画に対して「フィルム・ノワール」という風に呼んだのが映画における「ノワール」の大元であり、この辺りはWikiにも書いてある。ジョージ・キューカーやらニコラス・レイやらの作品がこの時点での「フィルム・ノワール(黒い映画)」である。
なんで黒いかというと照明費用を削るために陰影濃いモノクロ画像にルックがなったからである。小説の世界において「ノワール」が再び脚光を浴びるのがアンドリュー・ヴァクスやジェイムズ・エルロイといった犯罪小説の書き手が現れた時である。それまでは「冒険小説」とか「ハードボイルド」とか呼ばれていた小説が、彼らの作品の出現とともにラヴェルが変わった。同時にアメリカで「ダイムストアのドストエフスキー」と呼ばれたパルプ小説の書き手ジム・トンプスンの再評価をギフォード(「ワイルド・アット・ハート」!)等がした事で日本でもトンプスンの作品が翻訳され、本格的に文壇で「ノワール」はジャンルになった。
映画における「フィルム・ノワール」はフランスのギャング映画(「サムライ」とか「さらば友よ」とか)全般を指す言葉へと若干シフトしつつ、こちらも犯罪映画全体のひとつの呼び名として定着していったように思う。
一方で香港映画で芽吹いた功夫映画ではない犯罪映画のジャンル、具体的にはツイ・ハークやリンゴ・ラム等が作り上げたジャンルを日本で上記のフランスギャング映画になぞらえて「香港ノワール」とネーミングした事から話はややこしくなる。しかもその最前線にあるジョニー・トーの映画がピンスポットで闇を切り裂く映画であるから余計にややこしい。
だがとりあえずここでは「ノワール」の定義とこの「香港ノワール」は別枠としたい。
僕自身の考えで言わせて貰えば、やはり「ノワール」を言葉として使う時にはある程度の注意が必要なのではないか、と感じている。悪女が出るから、主人公が破滅するから「ノワール」なのかというとそうではないというのが僕の考えだ。
よく「ノワールの語り手は信用ができない」というような事が言われるが、そういう事なのだろうと思う。その主観/客観であったり善/悪の境界の曖昧さにこそ「ノワール」の黒は潜んでいるのではないか。
だから明らかに「全員、悪人」な人たちが怒鳴りながら殺しあってもそれは「ノワール」ではない、というのが僕の見立てだ。
「ファム・ファタル」についてもこれも解釈が人によって違ってくる厄介な言葉なのでまた別の機会に。
ぶっちゃけて言えば邦画においては「ノワール」という言葉はそぐわないのではないか、と思っている。
例えば若松孝二や鈴木清順、曾根中生の作品には「ノワール」の匂いがするけれども、だいたいは犯罪映画、という言葉を使えばいいものだと思う。要するに「ノワール」という言葉で本来解釈しなければならない部分が何となく「あぁノワールね」というレッテルでスルーされていくのが気持ち悪いという事なのである。
もう一段、自分の言葉で、自分の思考でそこに踏み込んで解釈していくのが映画の楽しみなんではないか。
そんな風に考えるものである。]]>
もし自分がミニシアター館主だったら
http://eroblo.exblog.jp/26171657/
2016-09-06T18:36:23+09:00
2016-09-06T18:35:39+09:00
2016-09-06T18:35:39+09:00
Gun0826
Movie
俺はADとして働き始める初日に訃報を聞いて呆然とした脚で向かったという記憶があり、色々と思う所があったりします。
毎年どこかしらのミニシアター(今名画座って言わないね)で追悼特集が組まれたりしてるわけですが、優作さんの出演作は往年の俳優よりは格段に少ないので、自ずとかける作品もワンパターンになります。
そこで自分がもし館主なら…と妄想番組表を作ってみました。
勿論、権利関係とか考えると、大変なんだろうけどそこはスルーで。
題して「優作映画とヒロインたち」。
優作さんの映画と、ヒロインを演じた女優さんの作品を二本立て興行。
これでかなりバラエティに富んだ番組になるのではないかと。
「蘇える金狼」→風吹ジュン
=>「白熱」(東宝:石田勝心) これはレアでしょ。脚本も両方、永原秀一!
「俺たちに墓はない」→竹田かほり
=>「桃尻娘」(にっかつ:小原宏裕) 竹田かほりと言えばコレ。
「殺人遊戯」→中島ゆたか
=>「爆発!暴走遊戯」(東映:石井輝男) あんまいいのが無いのよ。美人なのに。
「処刑遊戯」→森下愛子
=>「十八歳、海へ」(にっかつ:藤田敏八) ここはあえて時計屋さんの森下愛子で。
「野獣死すべし」→小林麻美!
=>「真夜中の招待状」(松竹:野村芳太郎) 麻美さんはあとこれしか映画が無い!
「ヨコハマBJブルース」→辺見マリ
=>「めまい」(松竹:斎藤耕一) マリさんの曲を映画化した一編。珍しいっていうか、プリントあるのか?
「陽炎座」→大楠(安田)道代
=>「痴人の愛」(大映:増村保造) 大映で3度映画化されてる谷崎源作の増村版。
いかがでしょうか。こういう妄想するのは楽しいですよね。
やっぱ映画は二本立、三本立だよなぁ、と古い世代の俺なんかは思います。]]>
牧が遺したもの 「怪奇大作戦」再考
http://eroblo.exblog.jp/26168613/
2016-09-05T17:18:00+09:00
2016-09-05T17:17:38+09:00
2016-09-05T17:17:38+09:00
Gun0826
TV
全然古びた感じがしない。恐るべし当時の円谷文芸。
ご存知ない方に説明すると「怪奇大作戦」とは「ウルトラQ」から続くTBS「タケダアワー」の「ウルトラセブン」の後枠として企画された番組で、ヒーローものではなくSRI「科学捜査研究所」の面々が科学犯罪に立ち向かうという一話完結の物語。
SRIは警察にあくまで協力する組織であり、逮捕権はない。警視庁鑑識課OBの的矢所長(原保美)以下、熱血漢の三沢(勝呂誉)、冷静で科学の知識ではチーム随一の牧(岸田森)、若手の野村(松山省二)とマスコット的存在のさおりちゃん(小橋玲子)がメンバーであり、主に警視庁の町田警部(おなじみ小林昭二)と捜査を行う。
例えば放送第一話の「壁ぬけ男」。
元奇術師の怪盗キングアラジンとSRIの攻防、と書くとなんじゃそりゃ、て感じなんだけど、このキングアラジン、タイトル通り壁をすり抜けるように消えてしまう。実はこれ、今でいう「光学迷彩」なんですな。「繊維の
一本一本が鏡のような役割を果たす」と劇中説明があり、牧作成の「スペクトル破壊器」でトリックは破られます。
今でこそ「光学迷彩」ってすぐ通じますけど、出てきたの「攻殻機動隊」辺りだし、現在ほぼ実用化されつつある技術が約50年前のドラマで既にアイデアとして使われてるという。(と同時にSFだったものが現実になっていってるという事ですけど)
「怪奇」と言えば実相寺、な「恐怖の電話」は同じ円谷の「怪奇大作戦セカンド・ファイル」で中野貴雄氏「ゼウスの引鉄」でセルフ・リメイクされましたが、「死神の子守唄」の熱ではなく絶対零度に冷やす事で放射能汚染を撃退しようとする実験は「シン・ゴジラ」の凝固剤の元ネタとも言えそう。
独居老人の家族との齟齬を「あれ」が解消しようとする「青い血の女」は今こそ見て戦慄させられる物語だし(これの殺人人形はドローン技術で出来そうですね)、今回見直してみて「殺人回路」という話が今まさに盛り上がりを見せているAIを先取りした話で、企業がコンピュータで優秀な人材を配置転換させ、それを進める息子専務が父である社長を死に追いやり、自分のライバルを殺していく・・・という筋立ては「パーソン・オブ・インタレスト」を彷彿とさせます(まだコンピュータが大型しかなくパンチカードだった時代に!)ここでの女神像がCRTディスプレイ(!)で幽霊のように映し出され対象を襲いますが、まぁこの時代にその言葉が出てくるだけでも凄いなと。
「死を呼ぶ電波」は今で言うハッキング技術のようなもんでしょうか。犯罪者の心理に迫る作品では、内気でバカがつくほど真面目な青年が自殺して死にきれずに人ならざるものになってしまう「光る通り魔」なんかは観てて辛くなる話。これには会社の不正を肩代わりさせられてたという捻りも加えてあります。
そしてなんと言っても「かまいたち」。この真空切断装置を作った無口でいたちのような目をした青年の心理は、今も我々をぞっとさせます。まるで「クリミナル・マインド」の一話のような仕上がり。そして何よりも、牧という正義の青年の心の中にもどこかこの青年と相通ずるものがあるのでは、と思わせるところがニクい。なお、昭和東宝ゴジラシリーズやスパイアクションでおなじみの福田純氏が脚本・監督で参加しているのも「怪奇」の特色と言えましょう。
だいたい怪奇と言えば実相寺話で終わってしまいがちですが、金城哲夫の「人喰い蛾」「吸血地獄」のストレートな怪奇描写も面白いです。
最近では滅多にない30分枠のドラマですが、短編の方が難しくかつさまざまなテーマが描けるというもの。
こういう枠がもっとあってもいいんじゃないかと思う今日この頃でございます。]]>
我地に平和を与えんために来たと思うなかれ
http://eroblo.exblog.jp/26159598/
2016-09-02T12:25:00+09:00
2016-09-02T13:15:17+09:00
2016-09-02T12:25:05+09:00
Gun0826
Talk
焼き場からの帰り、抱えた骨壷が熱かったのを覚えている。本来なら喪主は父が務めるところだったが、茫然自失状態だったので俺がやった。結局両親とも、俺が喪主になった。父が亡くなったのは今年の三月だ。
俺は小学校の五年生の冬、姉妹だけで住んでいた姉達と一緒に住む事になった。自分で選んだ事だった。
中学の三年まで姉たちと過ごし、高校三年間だけは家族そろって暮らした。
物心ついてちゃんと家族との生活をしたのはその三年だけだ。
その後東京に出てもう約30年。東京で過ごした時間の方がずっと長くなった。
母は厳しい人だった。
俺が東京に行くと決めてから、ひと月、一言も口を利かなかった。
食事は出たが、声をかけられる事は無かった。
姉たちにも厳しかった。
母はキリスト者だった。信者だった。
汝の隣人を愛せよ、という宗教の信者でありながら、いつも他人や家族に怒っていたような印象しかない。
だからこそ信者だったのかもしれない。
旧約聖書を読むとよく分かる。家族の諍いの話しか載っていない。
最初の殺人は兄弟間で起こる。兄弟みんなで一人を追い出す。そんな話ばかり載っている。
神様も意地が悪い。そんな程度の人間に「他人を赦せ」と言う。「他人を愛せ」と言う。
パトレイバー2の柘植の台詞をよく思い出す。
「我地に平和を与えんために来たと思うなかれ。我汝等に告ぐ、然らず、むしろ争いなり。今から後一家に5人あらば3人は2人に、2人は3人に分かれて争わん。父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に」
今年は墓参は8月に済ませたので、許せ母よ。]]>
映画を観る時の人の感覚を疑え
http://eroblo.exblog.jp/26156531/
2016-09-01T11:38:00+09:00
2016-09-01T11:38:20+09:00
2016-09-01T11:38:20+09:00
Gun0826
Movie
さて、最近巷で流行るもの。庵野に新海、ツイッターってな事を申しまして、シネコンにてよく見かけますのが映画が終わりますと真っ先にスマホをつけてツイッターらしき画面を見ている御仁。
流石にエンドロール中にやるお方は少なくなりましたが(それでもたまにいますが)、終わった座席でちょこちょこと。
映画の感想をよほど早く呟きたいのか、と思って見ておりますとフリック入力するでなし、どうにも何か読み耽っているご様子。
どうにも「他の人の感想」を読んでるようなんですな。
自分の感想より人の感想とはどういう事だろうなと気になります。「おぉい八っつぁん」
「なんでぇ留吉、藪から棒に」
「おめぇ観たかいシン・ゴジラ」
「おぅ観たともさ、初日最前列よ。字幕の文字酔いしちまったけどな」
「で。どうだった?」
「どうだったって何がよ」
「だから、面白かったかって聞いてんだよ」
「あぁん、おいらは今ひとつだったなぁ」
「そんな事ぁねぇだろ、そりゃおかしい。天下の庵野秀明だって言うぜ」
「庵野か餡子かシラネェが俺ぁちょっと後半退屈しちまったんだからしょうがねぇじゃねぇか」
「そりゃぁお前の映画観るセンス、映画観る才能が足りねぇのよ」
「何だとこら。映画観るのにセンスも浴衣もいるもんけぇ。こっちゃ木戸銭払って観てんだ。元がとれなきゃつまんねぇ、それだけよ」
「バカだねぇお前も。時流ってのがあるんだよ。今はシン・ゴジラと言えば面白い、これが相場ってもんよ」
「冗談じゃねぇや。そんな相場小豆よりアテにならねぇな」
「おいおい、なんつっても53億も稼いでんだぜ。評論家先生も、ツイッターってのか、あっちの評判もすこぶるよ」
「そりゃあやかりてぇ話だが、俺がつまらねぇものはつまらねぇって言っちゃいけない道理はあるめぇよ。そんなに言うならゴジラの代わりに絵コンテ用紙にずっと白い犬っころ書いて映しとけ」
「犬っころとは、そりゃまたどうして?」
「白い犬だけに、最後まで尾も白い」
という事で自分の感想を大切に、言いたい事はちゃんと言える世の中になりたいなというお話。お後がよろしいようで。]]>
にせポスターお蔵出し
http://eroblo.exblog.jp/26154769/
2016-08-31T20:10:00+09:00
2016-08-31T20:10:28+09:00
2016-08-31T20:10:28+09:00
Gun0826
Movie
しっかしこの映画、角川大丈夫だったんだろうか?
元ネタは日活ロマンポルノの寺島まゆみ主演作で、本家「セーラー服と機関銃」にぶつけて一週先に公開された作品。機動力ですなぁ。
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にせ(東映)映画ポスター展
http://eroblo.exblog.jp/26151964/
2016-08-30T19:55:00+09:00
2016-08-30T19:54:36+09:00
2016-08-30T19:54:36+09:00
Gun0826
Movie
こんなとこでもないとまとめて置いておく事もなかろうという事で過去ネタ投下。
まずは公開迫る「スーサイド・スクワッド」だ!
正調東映ミーツザックさん。
東映Vシネマ調はこちら。
奥山和由松竹。
おまけ。
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「性愛スキャンダル コケシと花嫁」 或いはジャンル映画について
http://eroblo.exblog.jp/26148358/
2016-08-29T15:14:00+09:00
2016-08-29T15:21:23+09:00
2016-08-29T15:13:50+09:00
Gun0826
Movie
日活はDVD合わせて12本が正解。
「海の情事に賭けろ」(野口博志/脚本:井出俊郎@滝口速太名義)は赤木圭一郎+中原早苗!の異色の一本である。
脚本の井出は表向き東宝の専属だった為、日活や他社で書く時は変名を使ってたそうで、三木克巳名義もこの人。
日活版の「青い山脈」「伊豆の踊子」も書いている。脚本家特集というのはとても面白くて、監督が変わってもどうしても作者の味というのが出てしまうんだなぁと痛感させられた。本作でいうと「瓜二つ設定」(笑)。これ、井出脚本の十八番である。酒井和歌子の「二人の恋人」でも同じ手使ってるし。
ラピュタ阿佐ヶ谷さんには今年前半「東京映画地図」も含めて、随分通わせてもらっている。
渡辺護特集も行きたいのだがレイトなので足が向かなくていかん。
さて同じく下エントリで「予定」とさせてもらってた新作ピンク映画、
「性愛スキャンダル コケシと花嫁」(池島ゆたか監督)
を上野オークラ劇場で観てきた。
Exciteブログでどこまで書いていいのやらわからんので概感に留めるけど、いちよレビューを。
同時に、「ジャンル映画」とは何ぞやという事も併せて考える。ここで簡単に、当ブログにいきなり来たような方に「ピンク映画」とは何かという事を簡単に説明すると、成人映画です。終わり。というのは乱暴なので補足すると、昭和の時代に大手五社以外の独立プロ(と興行主の利害一致)によって誕生した男女の性交をあえて見せる事を目的としたジャンル映画である。主な番線は大蔵映画、新東宝(国映)、。両者ともそれ以前の昭和メジャー会社であった。これに追随したのがさっき書いた日活のロマンポルノだったが、AVの普及とともに1988年で製作を停止、エクセス番線でそのスタッフを九州して、これらの会社で連綿と現在まで作り続けられてきた。しかし昨年正月以降、新東宝も新作を放つ事ができず、ついに残る牙城は自社配給できる劇場を持つ大蔵映画(現:OP映画)のみとなった。2014年まではフィルム撮影だったが2015年よりいよいよデジタル撮影となり現在に至る。年間約40本、プログラム・ピクチュアの伝統を守って3本立(2本は旧作)での上映が行われている。
上野オークラHPはこちら。 俺は10年ほど前にこの大蔵映画の脚本募集に出そうと思い立ち、その際にある程度作品をまとめ観したが、その後はぱったり行かなくなっていた(最近DVDで何本か観た)。行ってたのはまだ新宿昭和/国際という新東宝番線があった頃の話である。現在は取り壊しされて、隣のビルのコンクリ壁が痛々しい。向かいにラムタラがあるというのも皮肉な話である。なんで俺がピンク映画を再び観始めたかというと、これが最後の「プログラム・ピクチュア」「ジャンル映画」の牙城であり、座席指定など無い本当の意味での自由な映画空間だからである。
大人が集うアンダーグラウンドな場所であるという魅力も大きい。居るだけでどこか悪い事してる気分になる。
実際危ないことをしてる人たちもいる。そういう空間こそが俺の持つ「映画館」のイメージなのである。
「ピンク映画」には必ず「セックスを見せる」という決まりがある。女が脱ぐ、というのが基本了解事項である。「日活ロマンポルノ」には10分に一回絡みを入れるという細かい規定があった。だが逆も真なり。セックスシーンが入っていれば、何をやってもいい(いや程度はあるが)という判断のもと、映画好きの人々なら知っているであろう幾多の名作が生まれた。興行側や出資側(映画会社)、映倫と丁々発止しながら、やりたいものをぶつけていく。そういう「注文芸術としての映画」が「ジャンル映画」であり「プログラム・ピクチュア」なのだ。
そして「性愛を見せる」という事はとりもなおさず、大人の男女のあれやこれやを正面から描く、という事でもあるのだ。
だからピンク映画は面白い(作品もある)のである。
最近低予算邦画に多い、小賢しいR-15等というレイティングに逃げずに、正々堂々と18歳未満禁止で勝負する。大人の映画ですよと宣言する。そこがいい。さて、「性愛スキャンダル コケシと花嫁」はかつてその新東宝を主戦場に、役者から監督へ転向して現在まで作品を撮り続けている「Mr.ピンク」こと池島ゆたか監督の最新作である。昨年「おやじ男優Z」でインディーズ映画界を沸かせた監督だが、全国巡業のためピンクは1作のみだった。だが今年は早くも2作目であり(1作目「淫欲開花! 魅惑のラブハウス」は親父の葬儀と重なったため未見)、氏の製作プロ「セメントマッチ」の記念すべき130本目である。昨年の「ビンビンなお留守番」はアイドル女優由愛可奈を主演に据えた為か熱量不足であったが、2014年の日高ゆりあ引退と入れ替わるように現れた川越ゆいという新しいミューズを今回も起用し、主演には2014年のピンク大賞新人女優賞(つってもAVのキャリアはもう10年じゃないか?←2008年デビューらしい)、2015年フル回転の5本主演ながら全く賞レースに絡めなかった不遇の巨漢乳女優・めぐりを据え、磐石の体制?で挑んだ一作である。
あらすじはPGを(手抜くなよ)→ここ。
ネタバレしちゃってまったく問題ないと思うので書くが、悪女に引っ掛かっちゃうおっさんの話である。
そのおっさんがうち捨てられていたコケシを拾って綺麗にしてやった事で、そのコケシが女の子になって恩返しをしにくるという捻りというかねじりが加えてある。この悪女がめぐり、コケシが川越ゆい。結果から書いてしまうと、悪女とその恋人(しかも不倫)との姦計を知った男がコケシにお願いして、懲らしめてもらっちゃう(酷い交通事故死w)筋立てである。最後にもうひとつ、これはおっさんの妄想だったのでは?という捻りを加えてシライBくらいにはなっている。
池島-五代暁子(座付作家)は大抵ハリウッド映画からお話を持ってくるのでm@stervisonさんならその元ネタもすぱっと指摘してしまうだろうが、俺には分からなかった。夏場だし、大蔵映画伝統の「怪談もの」なのかな?と思いながら観た(かつての邦画系列には夏場に律儀に怪談映画や化け猫映画をやる番組編成があったの)。
実は最近のOP映画はエクセス出身の山内大輔監督が専属になってから、低予算Vシネみたいなホラー系に寛容になってしまい、観終わって傷跡とか血糊しか記憶にないような映画が多い傾向があって、「ピンク」の部分がとても薄くなっていた(山内監督はエクセス時代はきちんと絡みのある作品を撮っていたのに、だ)。というか全体的に、尺が70分になってから「絡みが邪魔」とでも言いたげな作品が増えたのだ。この伸びた10分にやる気のない絡みを尺合わせで入れられると、見てる方は本当に疲弊する。併映が浜野佐知ならまだいいが。
本作は何よりも、「充実した絡みを撮ろう」という意志のもと、主演のめぐりが見事にその要望に応えてピンクとしては破格のボリュームの体、じゃなかったセックスシーンをこれでもかと見せてくれる所が素晴らしい。どれぐらい素晴らしいかというと、前番組から高いびきで寝ていた爺さんが喘ぎ声に何事かと眼を覚ましてその後身を乗り出して観てしまうぐらい。俺の横の兄さんもずり落ちそうに座ってたのが気がついたらしゃきっとしていた。
ベテランの池島組カメラ・清水正二はおっぱいから始めたらちゃんとおっぱいに帰るという反復のカメラワークと扇情的なフレーミングで女体を捉え、めぐりの体の長所を引き出す。妄想の絡みはハイキーなトーンで描かれがちだが、デジタルの弱点である「白飛び(明るい部分が真っ白になってしまう)」ギリギリの所で美しい画に仕上げている(この辺は昨年の「ビンビンなお留守番」から学んだ点だろう)。そして第二に、ヒロインたちがみな美しく魅力的に撮られている。めぐりの演技力の懐の深さは昨年の城定秀夫(城定夫)「わるいおんな」で実証済だが、今回も全盛期の若尾文子もかくやという男を溺れさせる系悪女を見事に体現。更に絡みではもう文句のつけようの無いベテランの艶にアドリブ(だったそうだ)をいろいろと交えてこちらの股間を攻撃してくる。
コケシの化身というなんともつかみどころの無い役柄の川越ゆいだが、何故か作劇的にはこの「事件」の探偵役であるため、黒縁メガネをかけてメモを読み上げるというその筋(どの筋)にはたまらんカワイイ画等もある。三番手の熟女枠、沢村麻耶は冒頭のみでやや棒読みだが、熟年デリヘル嬢の悲哀をさらりと見せていてこの辺は演出の賜物だろう。
男優では竹本泰志が今年に入ってどの作品も素晴らしい。本作のC調(死語)の浮気夫も見事だった。
エロ度だけで言うなら、今年の城定秀夫「汗ばむ美乳妻 夫にそむいた昼下り(舐める女)」を超えてると思う。池島監督は旧上野オークラが閉館した際の「PINKHOLIC」で旧国映四天王(一人は今年「64」で昇りつめた感がある瀬々敬久)の活躍を指して「ピンク」と「映画」が離れてしまった、「映画」に行ってしまいすぎる、と指摘している。その両方をくっつけて「ピンク映画」にするのが自分の役目だ、と。職人監督の矜持である。刑事アクションは刑事がアクションをしないと駄目だ。ホラー映画は怖がらせないと駄目。ヒーロー映画はヒーローが活躍する。怪獣映画は「怪獣がかっこよくなければ駄目」。そしてピンク映画は臆する事なく、セックスを見せればいいのである。それが「ジャンル映画」というものだ。ともすれば「映画」という訳の分からない権威に作者も出資者も魂を引かれてしまう。「映画芸術」と言い換えてもいいかもしれない。だがそこで踏ん張って、お客が見たいものを見せる事ができるのが本当の映画監督だ。ピンク映画で言えば暇つぶしに小屋に来た爺さんに「今日はエロいの観たなぁ」とちょっと元気になってもらって帰路についてもらう。そういう仕事だ。
昨年から始まったOP PICTURES+は、「ピンク映画は映画である」というコンセプトのもと、R-15指定になるよう再編集され(絡みがカットされ)タイトルも変えてテアトル新宿でレイトショーされている。
新たな客層開拓のための策とも言えるが、2バージョン編集しつつローテーションする監督の仕事量は想像するに厳しい。しかもそこにやって来る観客は所謂映画ファンではなく、演じているAV女優の追っかけが殆どだろう。
ピンク映画はピンク映画なのである。そこに気づかないと、いずれ大きな穴が開く。それは邦画の大きな欠落になる可能性があるのだ。]]>
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